福岡県北九州市のお客様 古銭型置物 買取しました!
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おたからや小倉中津口店の植波です!
今回買取させていただいたお品物は古銭型置物です!
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「寛永通宝」(かんえいつうほう)は、日本の代表的な銭貨(せんか)として江戸時代と明治時代に流通しました。この通貨の変遷を辿れば、当時の社会・経済、そして江戸幕府の状態が見えてきます。今回は寛永通宝の歴史についてご紹介させていただきます。
永楽銭(えいらくせん)や鐚銭(びたせん:粗悪な私鋳銭[しちゅうせん])などは、江戸幕府ができるより前に銭貨として使われていました。 そこで幕府は、まず金座・銀座を設置して金銀貨の発行と流通を優先します。鐚銭のみを標準貨幣として使用することに決めて、とりあえず三貨を整え、全国の流通貨幣のコントロールを目指したのです。
当時は流通銭貨の絶対量の不足が問題となっており、新しい銅貨を作る必要がありましたが、それにはしばらく、原材料である銅の入手などの準備が必要でした。
1626年(寛永3年)常陸国(ひたちのくに)水戸(現在の茨城県水戸市)の商人が、銭貨不足の対策として寛永通宝という銅貨を作りました。幕府と水戸藩から許可を得ていましたが、あくまで水戸藩内での私鋳銭。しかし、これがのちの幕府による公式貨幣の先駆となりました。
そしてついに1636年(寛永13年)、幕府は通貨として寛永通宝を正式に採用。以降、明治元年に至るまで、原材料やサイズを変えながらも鋳造を重ね、長く存続しました。
寛永通宝は江戸幕府がなくなり、明治幕府が誕生したあとも補助貨幣として使用されました。1871年(明治4年)の新貨条例の発令以降は、「圓・銭・厘」(えん・せん・りん)を単位とする新通貨体制のもとで1厘の価値を持って存続。1873年(明治6年)に貨幣としての資格を失い、最終的に運用停止となったのは1953年(昭和28年)です。
650年以上の長い時を経て作られた日本の銅銭、寛永通宝を発行した理由は江戸時代の参勤交代だったと言われています。大量の武士が移動するためには各宿場町で彼らが使う少額貨幣が足りませんでした。こうして作られた銅銭には、江戸時代で最初に鋳造された年の年号から寛永通宝が名付けられます。この貨幣の登場により、日本の貨幣が統一され、庶民の日常生活に浸透していくこととなりました。その通貨は幕末まで続けられる中、素材や質が変わることがあっても300年以上も引き継がれ、昭和の時代まで生きた通貨です。
以上、寛永通宝についてご紹介させていただきました。
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